「!!」
エミルは大きく目を見開いてから、再び目を逸らした。
言葉が返せないのは、相手が王女だから否定できないのか、図星だから否定できないのか。いずれにしても、エミルの彼女への想いには、並々ならぬものがあるのは間違いなかった。
「ふーん。じゃあさ。こうしたらどうだ?」
次にリザレリスの執った行動は、エミルを驚愕させる。
「お、王女殿下、い、いったいなにを......」
エミルの狼狽は極限に達した。なぜなら彼の手が、王女の胸のふくらみに当てられたからだ。
「おまえ、わたしとヤリたいんじゃねーの?」
リザレリスの意地悪い魔女のような眼差しがエミルに突き刺さる。
「お、おやめください」
もはやエミルにはそれしか言うことができない。
「ヤリたいかヤリたくないか、どっちだよ」
「お、おやめください」
「どうせ男はヤリたい生き物なんだ。
エミル・グレーアムは、生まれながらにして魔力を有する特別な人間だった。そんな彼が、この時代の「吸血姫が目覚めた時のための生け贄」に選ばれるのは当然だったと言える。しかし実際に生け贄に選ばれるまでの、魔力覚醒前夜の幼少期のエミルは、極めて過酷な状況に陥っていた。エミルの両親は、彼が物心ついた頃には亡くなっていた。街中で暴走した馬車に巻き込まれて死んだのである。エミルの記憶に残っているのは、迫りくる暴馬と、自分を抱擁したまま生き絶えた両親の生温かい血と、冷たくなっていくぬくもりだけだった。その後、エミルは唯一の縁者だった叔父のもとに預けられる。財力のある叔父は、以前にエミルの両親が困った時には経済的援助もしてくれた人だった。叔父はエミルを喜んで迎え入れた。なぜならエミルは誰よりも美しい少年で、叔父の知られざる欲望を満たすための極上の果実だったから......。ある日のこと。叔父から秘密の地下室に呼び出されたエミルは、二つの真実を知った。ひとつは叔父の淫らな本質を。もうひとつは、生前の両親が頑なに叔父を引き合わせてくれなかったのは、息子を守るためだったということを。「や、やめてよ、叔父さん!」
エミル・グレーアムは刑務所にぶち込まれた。もはや少年は何もかもに絶望していた。幾度となく自ら命を断とうかとも考えた。そんな時だった。何の前触れもなく唐突に、エミルは釈放されたのである。何が何だかわからないエミルの目の前に現れたのは、ディリアスと名乗る大人の男だった。「大丈夫だ。君は悪くない。私が君を許す。そのかわり君には、我が国の眠れる希望のための生け贄となって欲しい。君には素晴らしい才能と素質がある。君こそ相応しいのだ」 幼い少年がどこまでを理解していたかはわからない。だがそれは、エミルにとって救いの手以外の何者でもなかった。エミルは、ディリアスについていった。それからのエミルは、ディリアスのもとで魔法を磨くためにひたすら鍛えられた。より上質な生け贄となるために。才能ある彼は、時間とともにメキメキと実力をつけていった。やがてエミルは、成長するにつれて、生け贄となったことを誇りに思うようになっていた。自分は選ばれた人間だと思えるから。実際、彼以前の生け贄に選ばれた人間は皆、優れた容姿と魔力を兼ね備えた特別な者たちだった。自分もその一員になれて、彼は嬉しかった。ただ......。
「それ以来、ディリアス様は入室を許してくださいました。それも理由があってのことではありますが。そうして私の心は......その日から王女殿下の美しい寝顔を見ることにより、平穏さを保つようになったのです」......語り終えたエミルは、もう死んでもいいとでも言いたげに、感極まっていた。夜空には煌々と満月が浮かび、数えきれない星々が瞬いている。夜風がリザレリスの頬をそっと撫でた。その時、風に飛ばされたしずくがきらめいた。「お、王女殿下!?」エミルは、ハッとする。リザレリスの頬に一筋の涙が光っていたから。「あ、あれ?」リザレリスは頬をぬぐう。自分でも気づかなかった。ただ、ひどく悲しい映画を観た直後のような脱力感に満たされていた。遊び人だった前世の人格にも、このような感受性は備わっていた。むしろ案外涙もろいところもあった。なので、エミルの話は少々刺激が強過ぎたのかもしれない。「も、申し訳ございません。私がつまらない話を長々としたばかりに。つい王女殿下の前で舞い上がり過ぎてしまいました」どうして良いかわからず、エミルは深々と頭を下げた。まさか自分ごときの話に、王女殿下が涙を流されるわけ
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【3】「吸血姫の復活だぁー!!」翌日は朝からお祭り騒ぎとなっていた。昨日もそうだったが、今日は熱気の度合いが違う。『五百年間の長き眠りからの吸血姫の復活』それが真の意味で成された。昨日のリザレリスの醜態は完全に覆された。赤飯を炊けー!という叫びが聞こえてきそうな城内の盛り上がりは、またたく間に国中にも波及していった。「な、なんか、ハズいんだけど......」再び玉座に座らされたリザレリスは、肩をすぼめてうつむいた。王女の隣に寄りそって立つディリアスは感慨深く息をつく。「本当に、良かったです」同様に玉座の御前に並ぶ廷臣たちもうんうんと頷く。ますます戸惑いを募らせるリザレリスは、助けを求めるようにディリアスの腕を掴んだ。「な、なあ。あいつはどこにいるんだ?」「あいつ、とは?」「エミルだよ」「彼はまだ医務室で休んでいるはずですが」「本当に大丈夫なのか?」「ええ。問題はございません」「なら、いいけど」「気になるのですか?」「だ、だって、俺...わたしが血を吸ったから」「それが生け贄としての彼の役割なのです」「そ、そりゃそうだけど」「お気に召したのですか?」「お、お気に召したっていうか、あいつイイ奴っぽいし」リザレリスの言葉に、ディリアスの眼鏡の奥の目がキランと光る。「王女殿下がお望みなら、彼を男妾にしていただいてもよろしいのですよ」「だ、だんしょう??」聞いたことのない言葉だったが、リザレリスはすぐに意味を理解した。彼女に宿る前世の男は遊び人。物事を深く考えない割には、そういうモノへのアンテナだけは敏感だった。「そ、それは......」リザレリスは変な気分になる。女に生まれ変わったばかりの彼女には、まだ女としての心構えができていない。だからこそ昨夜「政略結婚」というワードを耳にして、生粋の女以上に気が動転してしまったとも言える。しかし今のリザレリスの心の中には、また別の感情も存在していた。「エミルには、そういうのは違う気がする......」リザレリスは神妙に言った。それは女遊びに明け暮れた前世の人格から出た心の声だった。前世でも、遊び人だったからこそ「遊んではいけない娘」は避けていた。それは危機管理であり、遊び人なりの一応の良心でもあった。とはいえやがてはミスを犯し、最終的には恨まれて刺殺されて転生して今
そんな時だった。「なんだ?」と隣のディリアスが何かに反応した。何かと思いリザレリスは視線を彷徨わせる。すると、玉座に向かって三人の重臣が歩み出てくるのが目に入った。「いったいどうした、ドリーブ卿」ディリアスが声をかけてもそれには応えず、三人の重臣たちは王女の面前まで来て跪いた。ディリアスは怪訝な表情を浮かべる。「ドリーブ卿、なんのマネだ」「ディリアス公。私は王女殿下の、そして我が国の未来のために、こうしております」三人の真ん中にいる、ドリーブという名の中年男が口をひらいた。この小太りの侯爵は〔ブラッドヘルム〕の外務大臣を務める重臣で、狸のような狡猾な面構えが印象的だ。ディリアスより位は下だが、手練手管の政治力を駆使し、彼に匹敵する確実な勢力を築いている。「こんなタイミングでわたしになんの用だ?」リザレリスがドリーブに言葉をかけると、ディリアスが割って入ってくる。「王女殿下はもうお退がりくださいませ」「なんでだ?こいつがわたしに話があるんだろ?」「さようでございます!私は王女殿下にお話しがあるのです!」してやったと言わんばかりにドリーブが声を上げる。「ドリーブ卿。王女殿下に対して失礼ではないのか」ディリアスの口調が厳しいものになる。リザレリスは小首を傾げる。「どうしたんだよ、ディリアス?」「王女殿下。ここは私の言うとおりに...」「べつに話を聞くぐらいいいだろ?」「ですからここは...」なぜか執拗に食い下がるディリアスに、リザレリスは苛立ちを覚える「なんでそこまでおまえに指図されなきゃならないんだよ」王女の言葉にニヤリとしたドリーブは、大きく息を吸い、ここぞとばかりに声量たっぷりに口を切る。「王女殿下!」「なんだよ。声デカいな」リザレリスはディリアスを制して話を聞く姿勢を見せた。ドリーブは心の中でよしと呟く。「今、我が国は大変な状況にございます!」「経済が逼迫してるらしいよな」「五百年間の眠りから覚めたばかりの王女殿下には、まだその実情まではおわかりにならないかもしれませんが、これはまごうことなき事実です。この点について、誰も意見の相違はないでしょう」ドリーブはディリアスに一瞥をくれる。これにはディリアスも頷くしかない。確かな事実なのだから。「それで、このような衆目に晒された場所で、ドリーブ卿は王女殿下に対し何を
広々とした玉座の間は、にわかにザワついてくる。重臣たちの表情は二通りに割れていた。微笑を浮かべるドリーブ派と、険しい顔をするディリアス派(伝統派)に。昨夜の会議においても、伝統を重んじるディリアス派は王女の政略結婚には極めて慎重だった。一方でドリーブ派は、使える手段は何でも使うべきという姿勢だった。両派とも、対立するのは今に始まったことではない。もはや国王の権力が衰退してしまったこの国では、力のある閣僚同士の争いの勝者が、国家運営を決定付けていた。「もう解散だ!」たまりかねたディリアスが手を挙げて閉会宣言を告げた。閣僚とはいえ、今のディリアスは国王代理。客観的にも実質的にもドリーブよりも立場が上だ。それでも臣下の者たちは動こうとしなかった。ドリーブの提案に興味を示さざるを得ないのだ。現在の国の窮状は誰もがよくわかっている。王女の政略結婚が、現状を打破する有効な手段であることは否定できない。「ドリーブ侯!具体的にどのように実現するのですか!?」しまいにはそんな声までもが飛んできた。「五百年間の眠りから覚めた唯一の正統なる王女殿下を、友好国とはいえ他国の王子と結婚させるなど許されるのですか!?」ディリアス派からも声が上がる。これを皮切りに場内は騒然となった。当のリザレリスは「政略結婚ってマジバナだったのか?」とディリアスに詰め寄る。「王女殿下。違うのです」ディリアスは否定するが、もはや彼にも場を抑えられない状況になっていた。策略通りのドリーブは、王女殿下の面前で勝ち誇った顔で立ち上がり、振り返った。そして紛糾する玉座の間にいる全員に向かい、大演説をぶつ。「ディリアス公をはじめとした伝統派は、王女殿下の政略結婚には反対です。わかります。わかりますよ。私にも我が国の伝統を重んじる心は当然あります。どんなに国が衰退しても、守らなければならないモノというのは必ずあります。外交を担うものとして他国へ訪問する機会の多い私だからこそ思います」巧妙なドリーブは、決してディリアス派を真っ向から否定も批判もしない言い方を心得ていた。よく言えば相手の尊重であり、悪く言えばズル賢い。「しかし皆さん。よくよく考えてみてください。我が国の建国の歴史を。そもそも我が国は、当時のウィーンクルム王女と婚姻を結んだヴェスペリオ・リヒャルト・ブラッドヘルム王によって建国された
【4】リザレリス王女とウィーンクルム王子の結婚の話題は、まるで既成事実かのように国中へ広がっていってしまった。ドリーブはマスコミにも強いパイプを持っている。彼の息のかかった新聞記者たちが動いたに違いない。「このような事態になり、大変申し訳ございませんでした」夕陽が射しこむ王女の自室で、ディリアスはリザレリスに深い謝罪を示した。これは完全に失態。ドリーブにいいように出し抜かれてしまった。頭を垂れながらディリアスは歯ぎしりを抑えられない。このような状況になってしまった以上、表立って政略結婚に反対することも難しくなってしまった。ここでディリアスが反対意見を表明した場合、ドリーブの張る論陣はこうだろう。「ディリアス公は自身の権力が揺らぐのを恐れて王女殿下の結婚に反対している。国家の窮乏も顧みず、己の権力欲のためだけに」実に巧妙で狡猾。ディリアスは追い詰められているのだった。しかもドリーブの、政略結婚を正当化する理論自体は間違ってもいない。王女殿下が目覚めてから僅かの間によく練り上げて実行したなと、ディリアスは感心すらしていた。事実、思想信条や人格は別にして、ドリーブは極め
「おっちゃん。これはなんだ?」不意にリザレリスが、ある品物を手に取った。それは不思議な薄青色の石を添えたストーンリングだった。「おっ、嬢ちゃん。見る目があるじゃねえか」「なんか特別な指輪なのか?」「それは魔法の指輪だ」「魔法の?」「そうだ」店主のオヤジはニヤリとする。「なかなか手に入らねーんだぜ?」「これでなにができるんだ?」「それは氷のリング。つまり、そいつを使えば強力な氷魔法が使えるってわけだ」「マジか!」「買ってくか?」「欲しい欲しい!」「でも嬢ちゃんは魔法を使えんのか?そんな感じには見えねえが」「えっ、誰でもいいってわけじゃないの?」「魔力持ちの魔法が使える奴じゃないと意味ないんだよそいつは」
入店すると、自然とウキウキしてきたリザレリスは、きょろきょろと店内を見まわした。でもすぐに「あ......」となった。「なあ、エミル」「どうしましたか?」「なんというか、あれだな」 昼間なのに薄暗い店内。埃の被った棚と品々。店の奥に控える店主のオヤジは、座ったままリザレリスたちへ一瞥をくれてから、退屈そうに手元の新聞へ視線を落とした。「ずいぶんと陰気くさいな」思わずそんな言葉が口からついて出てしまったリザレリスだったが、合点がいく。これがディリアスの言っていた「国の窮状」の一端なんだと。「そうだよなぁ」と店主のオヤジが不機嫌そうに口をひらいた。「たしかに陰気くせーよな。以前はまあまあ繁盛してたんだがな」「申し訳ございません。悪気はないのです」エミルが一歩前に出て、リザレリスの代わりに謝罪する。「べつにいい。事実だからな。一時期は〔ウィーンクルム〕からの観光客で溢れ返ったことだってあるんだ」「へぇー、インバウンドってやつか」とリザレリス。「ところが今じゃこの有り様だ。親父の代から続けてきたが、このままじゃ店を畳むことになるぜ」店主のオヤジは新聞をぐしゃぐしゃにしながら吐き棄てた。「そうなんだ......」何を思ったか、リザレリスは陰気な店主につかつかと歩み寄っていく。「リザさま?」心配顔を浮かべてエミルも付き添っていく。「なんだ?嬢ちゃん」店主のオヤジはやさぐれた眼つきで睨みつけてきた。リザレリスはボンネット帽子の下から可憐な顔を覗かせて切り出す。「ひょっとしたら、この辺りの店は全部そんな感じなのか?」「だろうな。それでも開いてる店はまだマシだ。何とか生き残ってるわけだからな。まあでも、地方に行きゃーもっと酷いだろう」「どこもかしこも景気が悪いってことなのか」「一部の金持ち以外はみーんな不況さ。これで〔ウィーンクルム〕との国交が絶たれちまったら、おれたち庶民はマジでどうなるかわかんねえ」「そんなに〔ウィーンクルム〕との国交って大事なんだな」「当たりめーだろ。輸入に輸出に観光に、一体どれだけの影響があると思ってんだ。世間知らずの嬢ちゃんだな」「なるほど。ディリアスやドリーブが言ってたことの実態はこういうことだったんだな」腕組みをしてうんうんと頷くリザレリスを見ながら、ふと店主のオヤジが何かを閃いた顔をする。 「嬢ちゃん
翌日のよく晴れた午後。リザレリスは城門を抜け、街へ飛び出した。昨日の今日で城は何かと騒がしかったが、ディリアスのおかげでこっそりと抜け出すことに成功した。ディリアスいわく、城にいてドリーブ派に接触されるよりは、いっそ外出するのは良い方法かもしれないとのこと。質素な服(といっても小洒落た町娘ぐらいのレベル)に着替え、古風なボンネット帽子を被ったリザレリスは、子どものようにはしゃぐ。「へ〜これがブラッドヘルムの街か〜」王女に転生してから初めての外出。リザレリスはここぞとばかりに異世界というものを満喫できると胸を踊らせていた。もちろん政略結婚の話は気になっていた。しかしこういう時だからこそ外で遊んで気を晴らすのが一番。そう思って彼女は羽を伸ばそうとしているのだ。「城も雰囲気あっていいんだけどさ。なーんか息苦しいっていうか、のびのびできないんだよね」リザレリスは、街の中心街の通りに軒を連ねる店々を興味津々に眺めた。まるで旧時代の、西洋の城下町に旅行にでも来たような気分になり、俄然テンションが上がってくる。ところがだった。 「なんか、やけに人が少ないような?」街の中心部の商店街のはずなのに、閑散としていた。よく見れば、閉まっている店も多い。「定休日なのかな」と呟きながらも、リザレリスの頭の中にはひとつのワードが浮かんでくる。「シャッター街......」だが、せっかく来たのだから楽しまないともったいない。シャッター街ぐらいどこにだってあるだろ。リザレリスは持ち前のテキトーさで気持ちを切り替え、どこか面白そうな店はないかと進んでいった。「おっ、あそこ、なんか気になるかも」ある雑貨屋を見つけ、リザレリスは小走りになると、ふと店前で立ち止まった。それから一歩遅れてきたエミルへ振り返る。彼女の顔は何か言いたげだった。「王女殿下?」「エミルももっと楽しめよ」「私はあくまで王女殿下の護衛です。私などには気にせず楽しんでください」真面目なエミルは微笑み返しながらも仕事の姿勢を崩さない。リザレリスは、ぶぅーっと口を尖らせる。「城では上司もいるからしょうがないだろうけどさ。ここでは他に誰もいないんだしいいじゃん」 「そういうわけには参りません。貴女は王女殿下で私は護衛です」「その、王女殿下ってのもやめてくんないかな。なーんかやりづらんだよなぁ」「それ
【4】リザレリス王女とウィーンクルム王子の結婚の話題は、まるで既成事実かのように国中へ広がっていってしまった。ドリーブはマスコミにも強いパイプを持っている。彼の息のかかった新聞記者たちが動いたに違いない。「このような事態になり、大変申し訳ございませんでした」夕陽が射しこむ王女の自室で、ディリアスはリザレリスに深い謝罪を示した。これは完全に失態。ドリーブにいいように出し抜かれてしまった。頭を垂れながらディリアスは歯ぎしりを抑えられない。このような状況になってしまった以上、表立って政略結婚に反対することも難しくなってしまった。ここでディリアスが反対意見を表明した場合、ドリーブの張る論陣はこうだろう。「ディリアス公は自身の権力が揺らぐのを恐れて王女殿下の結婚に反対している。国家の窮乏も顧みず、己の権力欲のためだけに」実に巧妙で狡猾。ディリアスは追い詰められているのだった。しかもドリーブの、政略結婚を正当化する理論自体は間違ってもいない。王女殿下が目覚めてから僅かの間によく練り上げて実行したなと、ディリアスは感心すらしていた。事実、思想信条や人格は別にして、ドリーブは極め
広々とした玉座の間は、にわかにザワついてくる。重臣たちの表情は二通りに割れていた。微笑を浮かべるドリーブ派と、険しい顔をするディリアス派(伝統派)に。昨夜の会議においても、伝統を重んじるディリアス派は王女の政略結婚には極めて慎重だった。一方でドリーブ派は、使える手段は何でも使うべきという姿勢だった。両派とも、対立するのは今に始まったことではない。もはや国王の権力が衰退してしまったこの国では、力のある閣僚同士の争いの勝者が、国家運営を決定付けていた。「もう解散だ!」たまりかねたディリアスが手を挙げて閉会宣言を告げた。閣僚とはいえ、今のディリアスは国王代理。客観的にも実質的にもドリーブよりも立場が上だ。それでも臣下の者たちは動こうとしなかった。ドリーブの提案に興味を示さざるを得ないのだ。現在の国の窮状は誰もがよくわかっている。王女の政略結婚が、現状を打破する有効な手段であることは否定できない。「ドリーブ侯!具体的にどのように実現するのですか!?」しまいにはそんな声までもが飛んできた。「五百年間の眠りから覚めた唯一の正統なる王女殿下を、友好国とはいえ他国の王子と結婚させるなど許されるのですか!?」ディリアス派からも声が上がる。これを皮切りに場内は騒然となった。当のリザレリスは「政略結婚ってマジバナだったのか?」とディリアスに詰め寄る。「王女殿下。違うのです」ディリアスは否定するが、もはや彼にも場を抑えられない状況になっていた。策略通りのドリーブは、王女殿下の面前で勝ち誇った顔で立ち上がり、振り返った。そして紛糾する玉座の間にいる全員に向かい、大演説をぶつ。「ディリアス公をはじめとした伝統派は、王女殿下の政略結婚には反対です。わかります。わかりますよ。私にも我が国の伝統を重んじる心は当然あります。どんなに国が衰退しても、守らなければならないモノというのは必ずあります。外交を担うものとして他国へ訪問する機会の多い私だからこそ思います」巧妙なドリーブは、決してディリアス派を真っ向から否定も批判もしない言い方を心得ていた。よく言えば相手の尊重であり、悪く言えばズル賢い。「しかし皆さん。よくよく考えてみてください。我が国の建国の歴史を。そもそも我が国は、当時のウィーンクルム王女と婚姻を結んだヴェスペリオ・リヒャルト・ブラッドヘルム王によって建国された
そんな時だった。「なんだ?」と隣のディリアスが何かに反応した。何かと思いリザレリスは視線を彷徨わせる。すると、玉座に向かって三人の重臣が歩み出てくるのが目に入った。「いったいどうした、ドリーブ卿」ディリアスが声をかけてもそれには応えず、三人の重臣たちは王女の面前まで来て跪いた。ディリアスは怪訝な表情を浮かべる。「ドリーブ卿、なんのマネだ」「ディリアス公。私は王女殿下の、そして我が国の未来のために、こうしております」三人の真ん中にいる、ドリーブという名の中年男が口をひらいた。この小太りの侯爵は〔ブラッドヘルム〕の外務大臣を務める重臣で、狸のような狡猾な面構えが印象的だ。ディリアスより位は下だが、手練手管の政治力を駆使し、彼に匹敵する確実な勢力を築いている。「こんなタイミングでわたしになんの用だ?」リザレリスがドリーブに言葉をかけると、ディリアスが割って入ってくる。「王女殿下はもうお退がりくださいませ」「なんでだ?こいつがわたしに話があるんだろ?」「さようでございます!私は王女殿下にお話しがあるのです!」してやったと言わんばかりにドリーブが声を上げる。「ドリーブ卿。王女殿下に対して失礼ではないのか」ディリアスの口調が厳しいものになる。リザレリスは小首を傾げる。「どうしたんだよ、ディリアス?」「王女殿下。ここは私の言うとおりに...」「べつに話を聞くぐらいいいだろ?」「ですからここは...」なぜか執拗に食い下がるディリアスに、リザレリスは苛立ちを覚える「なんでそこまでおまえに指図されなきゃならないんだよ」王女の言葉にニヤリとしたドリーブは、大きく息を吸い、ここぞとばかりに声量たっぷりに口を切る。「王女殿下!」「なんだよ。声デカいな」リザレリスはディリアスを制して話を聞く姿勢を見せた。ドリーブは心の中でよしと呟く。「今、我が国は大変な状況にございます!」「経済が逼迫してるらしいよな」「五百年間の眠りから覚めたばかりの王女殿下には、まだその実情まではおわかりにならないかもしれませんが、これはまごうことなき事実です。この点について、誰も意見の相違はないでしょう」ドリーブはディリアスに一瞥をくれる。これにはディリアスも頷くしかない。確かな事実なのだから。「それで、このような衆目に晒された場所で、ドリーブ卿は王女殿下に対し何を
【3】「吸血姫の復活だぁー!!」翌日は朝からお祭り騒ぎとなっていた。昨日もそうだったが、今日は熱気の度合いが違う。『五百年間の長き眠りからの吸血姫の復活』それが真の意味で成された。昨日のリザレリスの醜態は完全に覆された。赤飯を炊けー!という叫びが聞こえてきそうな城内の盛り上がりは、またたく間に国中にも波及していった。「な、なんか、ハズいんだけど......」再び玉座に座らされたリザレリスは、肩をすぼめてうつむいた。王女の隣に寄りそって立つディリアスは感慨深く息をつく。「本当に、良かったです」同様に玉座の御前に並ぶ廷臣たちもうんうんと頷く。ますます戸惑いを募らせるリザレリスは、助けを求めるようにディリアスの腕を掴んだ。「な、なあ。あいつはどこにいるんだ?」「あいつ、とは?」「エミルだよ」「彼はまだ医務室で休んでいるはずですが」「本当に大丈夫なのか?」「ええ。問題はございません」「なら、いいけど」「気になるのですか?」「だ、だって、俺...わたしが血を吸ったから」「それが生け贄としての彼の役割なのです」「そ、そりゃそうだけど」「お気に召したのですか?」「お、お気に召したっていうか、あいつイイ奴っぽいし」リザレリスの言葉に、ディリアスの眼鏡の奥の目がキランと光る。「王女殿下がお望みなら、彼を男妾にしていただいてもよろしいのですよ」「だ、だんしょう??」聞いたことのない言葉だったが、リザレリスはすぐに意味を理解した。彼女に宿る前世の男は遊び人。物事を深く考えない割には、そういうモノへのアンテナだけは敏感だった。「そ、それは......」リザレリスは変な気分になる。女に生まれ変わったばかりの彼女には、まだ女としての心構えができていない。だからこそ昨夜「政略結婚」というワードを耳にして、生粋の女以上に気が動転してしまったとも言える。しかし今のリザレリスの心の中には、また別の感情も存在していた。「エミルには、そういうのは違う気がする......」リザレリスは神妙に言った。それは女遊びに明け暮れた前世の人格から出た心の声だった。前世でも、遊び人だったからこそ「遊んではいけない娘」は避けていた。それは危機管理であり、遊び人なりの一応の良心でもあった。とはいえやがてはミスを犯し、最終的には恨まれて刺殺されて転生して今
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「それ以来、ディリアス様は入室を許してくださいました。それも理由があってのことではありますが。そうして私の心は......その日から王女殿下の美しい寝顔を見ることにより、平穏さを保つようになったのです」......語り終えたエミルは、もう死んでもいいとでも言いたげに、感極まっていた。夜空には煌々と満月が浮かび、数えきれない星々が瞬いている。夜風がリザレリスの頬をそっと撫でた。その時、風に飛ばされたしずくがきらめいた。「お、王女殿下!?」エミルは、ハッとする。リザレリスの頬に一筋の涙が光っていたから。「あ、あれ?」リザレリスは頬をぬぐう。自分でも気づかなかった。ただ、ひどく悲しい映画を観た直後のような脱力感に満たされていた。遊び人だった前世の人格にも、このような感受性は備わっていた。むしろ案外涙もろいところもあった。なので、エミルの話は少々刺激が強過ぎたのかもしれない。「も、申し訳ございません。私がつまらない話を長々としたばかりに。つい王女殿下の前で舞い上がり過ぎてしまいました」どうして良いかわからず、エミルは深々と頭を下げた。まさか自分ごときの話に、王女殿下が涙を流されるわけ